僕は仏教徒かキリスト教徒かと聞かれると「キリスト教徒だし仏教徒です」とお答えします。
ようは両者の良いところだけを取った無宗教徒です。
今日はタイ人の信仰心に思う自己暗示的な発想について書いてみました。
祈る目的はどうであれ「行為」そのものは美しい

タイで生活していると毎日5回以上は必ず、タイ人が参拝しているところをよく見かけます。
町中には至るところに仏像や寺院があり老若男女かかわらず多くの方々がお祈りを捧げているのです。
大都市バンコクでさえ例外ではなく、各駅に大なり小なりの寺院が存在するほどタイ人の生活習慣の1つになっています。
何を祈っているのかを聞くと「自分や家族の健康」という人もいます。
「宝くじ当選」と答える人もいます。
いずれにせよ自分自身(もしくは親類)のためにお祈りしている人がほとんどのような気がします。
けど僕は何に対して祈るのかは正直どうでも良いと思うんです。
大切なのは「祈るという行為」を欠かすことなく実践しているところ。
お祈りをする人々を見ていると美しく心があたたまり、自分のために祈ろうが人のために祈ろうがその行為は尊敬に値します。
なぜだか分かりませんが感動すら覚えてくるのです。
信仰心は「思想」と「実践」の表れ

なぜタイ人は、あそこまで「信仰心が強いのか」と疑問を持ったことはありませんか?
しかし、よくよく考えてみると日本人も元々は八百万の神々に代表されるように常にお祈りをし万物全てを神格化してきました。
それを人は「神」と呼び、あるいは「自然の神秘」と呼び、否定的に「偽りの心理」と呼びました。
本当のところは「何なのか」はさておき、強く願い実践するという行為こそが人々の救いになっているのは間違いないと思うのです。
それはキリスト教徒に代表される「キリスト」かもしれないし、仏教徒に代表される「釈迦」なのかもしれません。
大切なのは何かではなく、その人ひとり一人の「思想(願い)」であって「実践(行為)」の着地点にあります。
それで心が救われ強く生きれるのであれば宗教は人類にとって無くてはならない存在でしょう。
信仰心=自己暗示(験担ぎ)

僕は数カ月前より週1回欠かすことなくワット・ホアランポーン(MRTサムヤーン駅すぐ)という寺院でお祈りをしています。
特に信仰心が強いわけではないんですが、長いときで1時間ほど最低でも20分くらいは仏像の前に座って瞑想していることもしばしば。
日本人は「験(げん)を担ぐ」と良いとされますが、僕の中でお寺でお祈りすることこそが験担ぎなわけです。
簡単に言ってしまえば自分一人の力では出来ない「自己暗示」をお寺に行く行為に験を担いで実践していると言って良いかと思います。
宗教って自己暗示であり験担ぎなんだと思うんですよね。
上座部仏教と大乗仏教と宗派は違いますがタイ人の信仰心も、おそらくここから来てるんではないでしょうか。
キリスト教もイスラム教も結局は自己を律するための自己暗示であり験担ぎなんでしょうね。
さいごに
結局のところ何が言いたいのか分からない記事になってしまいましたが、宗教って気分が落ちたときに引き寄せられる強力なものなんですよね。
これを悪用する人もいますし、良い方向に使う人もいます。
僕は僕自身の自己暗示の1つとして大いに活用させてもらってます。
タイで生活してるからこそ感じた昔の日本にとっては当たり前の光景を今この目で見ていろいろと思うところがあったのです。
今回はスピリチュアルで胡散臭い内容になってしまいましたが、一皮むけた僕の今後の活動にご期待下さい(笑)!


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